寒いですね。

当時は、フジカシングル8を使っていた

 もーすぐ3月というのに突然の寒波がやってきて、雪が降っているじゃあーりませんか。昨日、3月号の写真割り付けを終え、時間にゆとりができたので、ご自慢のビデオカメラ(SONY V-5000)を抱え、山に映像を撮りに行ってきました(えーぞ、ええぞ、映像……映像天国、三宅裕司のエビ天♪)。町内にはスキー場があり、若者たちが4WDの助手席に女の子なんかを乗せて山を登っていきます。「若いっていいなァ」「青春してるね」という温かな笑顔で彼らを見送り、心の中では「地獄に堕ちろ」を連呼します。

 さて、映像というものに興味を持ち始めたのは、昨年、HNKでの広報セミナーから。もちろん前任がビデオ広報の導入を進めていたこともあり、事業継続のための研修参加でした。しかし、機材(いまは懐かしマックロードムービー)は故障し、買換予算もつかず、休眠状態。機材購入については来年度予算にも計上されておらず、再開の見通しもありません。が、過去にさかのぼれば高校時代のクラブ活動で「動画」というものにかなりかかわった経験がありました(ちょっとだけ、暗い話だぞ)。

 高校時代は「8ミリ映画製作クラブ」に入っていました。クラブ訪問で部室を間違え、そのまま引き込まれました。先輩たちはとても良い人ばかりで、酒やタバコなどを教えてくれました。D先輩などは朝から酒の匂いがプンプンさせており、とても健全なサークルでした(ハハハ)。中学時代は剣道部でしたが、部室でのタバコはもちろん「ボクシング」と称して複数で無抵抗な後輩たちをボコボコにするような荒れようでした。そのため、高校では活動が低調な「映画研究会」に入部したいと思い、映研の部室と間違えて訪問し、入部したのがこのクラブがでした。

 新入部員は、私だけ。早々に退部したかったのですが、M先輩からさんざんご馳走になり(資金は、親の財布から抜いていた)逃げられなくなったのです。そのうち、スカートの裾の長い女子や停学処分から復帰した女子など、同学年の女子が入部。また、柔道部や空手部などの後輩から恐れられている先輩も掛け持ちで入部し、退部は不可能になっていました。クラブ活動での僕は無口で、柔道部の先輩に首を絞められては笑いながら落ち、女子の誘惑にも微笑みで対応し、気がつけば高校2年生の秋、僕は部長になっていました。部長になって20日ほど経った日、先輩たちの飲酒問題が明るみに出て、クラブは廃部になりました。

 廃部になったのは仕方ないことなのですが、8ミリ映画を作るのは意外と楽しく、製作活動を継続すべく友人の多い物理部に入部し、8ミリ映画製作部会を立ち上げました。そして生物部の剛浦や地理部の学田などの悪友を引き込み、文化祭での上映を目指し20分の映画を作ったのです。高校3年生のときの話です。小道具を作ったり、絵コンテを作ったり、編集作業に没頭するに従い、意外と良かった成績は見る見るうちに下がり、秀才と言われ続けた(ウソだよ)私も、平均的な人になっていました。

 さて、出来上がった映画はギャグの連発で、当時の高校生が考えたネタにしては意外と好評でした。現在、同じ職場で働く文矢君(総務課選挙管理委員会)には変質者の役をやってもらいました。変質者といっても昭和53年当時の高校生の発想ですから、他愛のないもので、所かまわず「チ〇〇よ」と言ってナニを出す露出狂の役です(立派な変質者ですわな)。

 高校卒業のとき「思い出に複製しよう」と思い、お年玉を握りしめ、部室にあったフィルムを探しましたが見当たりません。ウワサでは、8ミリ映画製作クラブ時代の先輩がフィルムを勝手に持ち出したらしいとのことで、それ以来、見ていません。

(平成3年3月(下)に続く)

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