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しっかり確認したいものです

 トイレと言えば、日常生活で気をつけていること、それは「まず、紙があるかどうかを確認して用を足すこと」です。思えば5年前、役所のトイレで用を足した後、神(紙)に見放されたことに気がついたのです。その時は、シルベスタ・スタローンのランボーのような行動をとらざるを得ませんでした。トイレットペーパーの芯さえなく(トイレが詰まる危険性を覚悟し、ほぐして肛門を拭くこともままならず……昔は、田舎のトイレには新聞紙や習字で使った半紙なんかが置いてあって、よく揉んで使っていたよね)ホタルのように尻を丸出しにした青年は、トイレのドア付近にあったトイレットペーパーの山を思い出しました。取りに行こう、しかし誰かに見つかれば、後々、職場での語り草になるという苦悩のすえ、野生のように鋭い感覚で、人の気配がないことを確認し、脱兎のごとくドアを開け、神(紙)を掴み、ピンチを切り抜けたのでありました。

 それ以降「紙があることを、ちゃんと確認してから用を足そう」を座右の銘とする私ですが、先日、また同じような試練に立たされることになった。「紙よし、トイレの鍵よし」まるでホームに立つJRの駅員さんのように正確に安全確認を行い、ズボンをおろし、投下。最終工程に移るべく紙に手をやると、ない、いや、1~2㎝くらいしかない。よく見ると、最後の最後、芯に張り付いた紙が1~2㎝しかない。どうしよう。

 今回は前と違いドアの近くにトイレットペーパーはなく、トイレの入り口付近、外部から見られる可能性は非常に高い位置にある。まさか、アーノルドシュワルツネッガーのターミネーターのようにズボンを膝までおろした状態で、尻に糞をつけた状態で堂々と取りに行けるわけがない。下手に行動を起こし人に見られてしまうと、さらに婚期が遅れてしまうおそれがある。(こういう話はオモシロイので、すぐに広がってしまう)まさか、シャイな私が「紙とってェ~」と大声で叫ぶなんて考えられないこと。どうしよう。トイレットペーパーの芯に手が伸びる。と、そこで先ほど銀行から「よろしくゥ」と言って手渡されたポケットティッシュがあることを思い出し、難を逃れたのでした。口座は開設していないけど、日本西銀行さん、ありがとう。

 後日、トイレに行ったとき大のボックスの中から「すまん、泰平、紙をとってくれ」と声がかかりました。トイレのドアの隙間から外の様子を伺い、小声で声をかけ、恥もかかずに難を逃れる。う~ん。やっぱり町長は出来てらっしゃる。と思いつつ、尻を丸出しでトイレのドアに張り付き、外の様子を伺う町長の姿を想像すると、2時間くらい笑えます。

 トイレの話で少々臭いのですが、こういう下ネタは罪がなくて好きです。よくよく考えるとトイレという場所は、どんなにエライ人であろうと、ひどい悪人であろうと、また、すんごい美人であろうと、それなりの人であろうと「野グソ」をしない限り、台所や寝室と同じで、人生にとって大切な場所である。小説家や芸術家には発想の場所としてトイレにこもる人がいる。あの手塚治虫氏先生でさえ、トイレでアイデアを出していたのである。

※「野グソ」という言葉の響きに、もの哀しさを感じる。今年の冬、子どもたちの防火看板設置の取材で一緒に山に登った。そのとき、突然襲う便意。辛抱たまらんようになり、笑顔で子供たちに別れを告げ、鬼の形相で見えない位置を確認し大自然の中で用を足したのである。用を足した安堵感と30歳を過ぎて野グソをした哀しさに、心は揺れ動く。ふと、足元に目をやれば、私が作った山の横に、他人様が作った山が…、広い山中で無限にある野グソの適地で、人を野グソに呼び寄せる呪い場所ではなかったのか、と寒気が走った。

(平成3年10月号(下)に続く)

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