鬼の首を取ったように役場に乗り込む富子

食べながら眠れるのは、幸せだと思う

 さて身近な登場人物ばかりで悪いが、毘沙門町3大ウルサ婆ァさん(なぜか、ファンが多い)の残りの2人を紹介します。まずは濵地オミヤさん。オミヤさんは戦争で夫と長男を亡くし、たいへん苦労をしたそうである。そのため次男を大切に育て、次男はその期待に応えて国立大学を卒業し、一流企業に就職・結婚、そして転勤族。まさに自慢の息子。そして、その孫(私と同い年)もとても出来が良いらしく”将来は九州大学を出て役人(国家公務員上級)になるだろう“と自慢していた。「ははっ、ウチの孫は富子しゃんの孫と違うて…」とよく比較の対象にされ、その度に富子は悔しがっていた。

 まあ、私もボーッとした子供で、やたらとミミズを掘ったり、スズメバチに頭を刺されたり“ちょっと遅れている”と思われていたのでしょうがないと言えば、しょうがない。その孫も中学・高校と進学し、私と同様に成績不振で九州大学を受けさせてもらえず、オミヤさんの期待を裏切ってしまったのです。元から嫁との関係は悪く、当時は同居していた次男の嫁を責めあげる。そうなると家族はうまくいかない。大喧嘩の末、別居。「ここは私の家だから出ていきなさい」と、次男夫婦を追い出したのである。この事件以来、毘沙門町3大ウルサ婆ァさんの地位を固めたのである。

 その後オミヤさんの腰はすっかり曲がり、一時は歩けなくなるほど悪化してしまった。転勤先から様子を見に来た次男夫婦はその状態に驚き、奥さんが介護のために同居したものの1か月も経たずに大喧嘩。追い出してしまった。もちろん負けん気の強いオミヤさん「介護なんかさせてやるものか」と奇跡の復活で歩けるようになった。明治の女である。祖母・富子の話によると、最近は近所の人ともめているらしい。近所の人とは、うら広報9月号に登場した毘沙門町役場の菊本(労働組合の過激な活動家)である。彼を「馬鹿」と決めつけ、遊びに来ると彼の悪口を延々と話すそうである。

 さて菊本と私の祖母・富子との出会いは、18年前。ちなみに富子のうるささは、古くから毘沙門町役場で知られており、およそ35年前、私の兄を背負い「固定資産税が高すぎる」と役場に乗り込み、町長室まで直談判に行ったときから始まる。(ああ、恥ずかしいよお)祖母の役場不信は相当深く、18年前の菊本とのやり取りはそれを助長するものであった。当時は菊本も若く、全共闘運動、東京大学(本人は他の名もない大学生)安田講堂で最後まで抵抗したという経験もあり、田舎の人にとっては横柄な兄ちゃんだった。そのころは、役場の労働組合も強く、春先にはたくさんの赤い旗がはためいていました。

 当時、毘沙門町役の前にはためく赤旗の竹竿が、夜中にボキボキに折られるという事件が頻発していたが、そのうちの1回は泥酔した父・匠であったことは内緒にしておいてください。ちなみに、父・匠は戦後間もないころ(昭和20年代、日本はとても貧しかった)電気労連の活動家で、産共党に入党しようとしていたらしく、親戚一同から猛反対され、ボロクソに言われ、思いとどまった経験がある。課長になってからは、すっかり保守的になったのである。

 さて18年前の事件というのは、町道の舗装工事であった。役場としては砂利道が舗装され、町民が喜ぶ予定であった。しかし、泰平家が所有する田んぼに隣接する道の一部が、異様に広くなっていたのである。「道がウチの田んぼに入っている」そう言って近くにいた役場の兄ちゃん(菊本)に訴えた。「婆ァさん、役場のしようことに間違いはなか。婆ァさんの勘違いバイ」とけんもほろろに、まるで「あんたが悪い」というような対応をしたのである。菊本も菊本でいい加減な仕事をしており、測量はしたものの、地権者との境界確認をしていなかったのである。

 菊本は、富子のこと、人柄などをよく知らなかったようである。富子はすぐに知り合いの測量士に依頼し、現状と正しい位置を図面に落としてもらった。おまけに、田んぼの排水溝がアスファルトで詰まっていることなど工事の不備を発見。鬼の首でも取ったように図面と写真を小脇に抱え、単身、役場に乗り込んで行った。ヤバいと思った菊本は逃げてしまい、課長さんが平謝りに謝り、道の一部は田んぼに戻り、測量費用はどこの予算から捻出したのか、弁済された。「菊本は、馬鹿のアカかぶれやけん…(ものすごい表現、これって差別用語)」というオミヤさんの言葉に、うなずく富子であった。

 今回は、市制施行直後で忙しく、書いてもコンパクトなうら広報にしようと思っていたのに、また8ページも書いてしまった。ははは、眠たくてたまらねえ…。何か面白い話題がありましたら、お便り待ってまーす。

TVに出ても彼女はできない:泰平 楽 (1992年10月27日)

Follow me!