2日目くらいから、水戸の肛門様がヒリヒリ

 しつこいようだが、ツアーの目的は文化財巡り。参加者も高齢夫婦がほとんど。本当に真面目なツアーに、ほんの少し…ガッカリしたような…うう。このツアーはモニター旅行で公州や普州の国立博物館のほか、発掘が進み日本との関係が注目されている伽耶(カヤ)諸国の遺跡巡り。このツアーに興味を持った理由は、私の住む毘沙門町の旧地名の一部に可也(カヤ)村があり“カヤ”の出所に歴史のロマンを感じたからです。可也村は正倉院で発見された日本最古の戸籍に登場する“川辺り里”。また、毘沙門町の中央には可也山という山があり、韓国の伽耶山と形が似ているという不確かな話も耳にしたからです。

 さらに言えば、奈良時代の”ナラ”という単語。韓国語では“クニ(国)”という意味があり、聖徳太子の時代に栄えていた百済(クダラ)は語源が“クンナラ(大きな国)”という説もあります。ちなみに聖徳太子の弟・久米王子は釈迦郡周辺で殺害され、久米という地名もあります。このように、日本と韓国の古代史・文化がオーバーラップしていると考えたことも、行ってみようと思った理由でした。紀元前1世紀ごろの韓国は、三韓(馬韓、辰韓、弁韓)が力を持ち、それぞれ百済、新羅、伽耶諸国(日本では“任那”と呼ばれている)になります。これらの国は、最終的に新羅に統一されていきます。

 日本の歴史は、239年に“邪馬台国”が中国の「魏志・倭人伝」に登場するのが記録の最初。当時、唐津に末盧国、糸島に伊都国、福岡に奴国がありました。次に記録に出てくるのが飛鳥時代(5~6世紀)。その間の200~300年の歴史は空白です。日本と大陸との交易は盛んだったようですが一方で国内では戦乱も多く、何がどうなっているのか不可解です。ただ、正倉院などにある飛鳥時代の文物が韓国のこの時代の文物と酷似、いや同じものではないかと感じるのは不思議です。…さて、よくよく考えると前記は、うら広報の記事らしくない。いずれ表広報の特集記事として宿題とします。

 んでもって4泊5日の旅、エッチな誘惑もなく(ううっ)楽しい(勉強になる)ものでした。観光ルートではなかったので、田舎町を訪れる場面も多くありました。田んぼでは機械ではなく牛が耕起作業をし、20~30年前の日本の田園風景です。その横にはビニールハウスが建ち並び、今の日本の田舎の風景とダブります。家屋の形も日本と微妙に違い、軒下にはキムチの大きな坪が並ぶ不思議な風景です。自動車も多く、ほとんどが現代(ヒュンダイ)車。日本車のフルコピーのようなものばかり。右側通行で人より車が優先し、プープーとクラクションがうるさい。一度、轢かれそうになった。

 看板や建物などはハングル文字で書かれ、鏡に映った日本の風景のようにも見えます。同じ人種で、しかもファッションも日本のものと似ているので、歩いている人は日本人と区別がつきません。しかし、話している言葉は全く分かりません。何度か声をかけられ「アンニョンハセヨ、アガシ、イルボン、イルボン」と訳のわからん返事をして逃げていました(日本語で「こんにちは、娘、日本、日本」の意味)。なぜかよく、道を聞かれ「アボジ、ハルモニ、アガシ、イルボン、パルパルヨ」と言って、韓国人出ないことをアピールしていました(日本語で「親父、婆ちゃん、娘、日本、??」の意味)。

 困ったのは、食べ物。国内で食べる韓国料理と違い、辛いのなんのって。2日目くらいから、水戸の肛門様がヒリヒリしています。とはいえ、空腹には勝てません。ヒリヒリと苦情を訴えるお尻の穴さんに「ごめんなさい」と言いながら、一際辛い「ビビンバ」や「プルコギ」「キムチ」を口の中に押し込みます。「明日の朝、お尻の穴の状態が大変なことになっているかもしれない……」と頭の隅で考えながら…。

(平成5年5月号(参)に続く)

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